不良ボランティア?

 
ボランティアはおしかけていい。
 東日本大震災被災地でのボランティア活動は、どれだけあっても足りな。各方面から、人手不足の声が挙がっている。さまざまな学生団体や実績のあるNPO、社協、財団などがボランティアを募ったりコーディネイトしたりすることにより、被災地と彼らの間に立って日々一生懸命活動している。しかし、ニーズ調査だけを前提に運営したり、ボランティアをただの人手として派遣したりしてしまえば、ボランティアの本質を見失ってしまう。駆けつけたいくらいの気持ちを持ったボランティアが制度・組織のボランティア像からはみ出してしまい、自宅のテレビの前でじっとしてしまっている。押しかけたいくらいの気持ちのボランティアを一方的に絞り込み、選別する必要はまったくない。もちろん、ある程度の効率や実務を保つためには、調整や情報収集を統括するボランティアセンターは必要不可欠だろう。しかし、そのセンターそのものが以下に書くようなボランティアの本質を、その中軸に置いていなければ、未来を見据えた復興は不可能だ。
 
なんでもありや。
 ボランティアは十人十色である。各人が持つ才能や感覚は、多様なボランティア活動を生む。さらにボランティアは一人十色である。ボランティアの立場、被災者の立場など超え、人と人が出会い、そこから生み出される多様な関係性は、ボランティアがただ一人の痛みの共感を持った人間である場合にのみ、発生する。それは、「~ができる!」という気持ちでいく専門ボランティアよりも、まさにきめ細かい被災者のニーズに対応することができる可能性がある。このようなボランティアは、重要な役割を担っている。プロ集団や専門ボランティアばかりが叫ばれる風潮の中で、あえてそのような人を不良ボランティアと呼ぶ。彼らが自分の感覚を信じて、自分が思う自己完結で自発的に動く限り、間違いなく被災地において有用な動きをする。まさに何でもありやの精神。つまり、彼らは、積極的な意味での、型破りの行動ができるということだ。
 
何もできないかもしれないから、何でもできる。
 逆に言えば、何もできないと思いながらも、被災地への思いを片時も忘れない人がまだまだ大勢いると思う。そのような方に、私たちは声をかけたい。そんなあなただからこそ、被災地や地元で何でもできるチャンスがあるのだと。不良ボランティアは効率や経済性、システム、組織等にはあまり縁がないかもしれない。しかしながら、人間としてのまごころから行動することは、自然とのつながり、人とのつながり、地域とのつながりを大切にしたくらしを営むための最低条件である。自分は何もできないかも、と迷うのはまごころそのものだと思う。私たち、不良ボランティアを集める会は、まさしく不良ボランティアが始めた会である。何か特別なことができるわけではない。しかし、そのことを考えた上でも何かできないかと思い悩んでいる。今でもそうだ。
 
ともに東日本、よりよい未来へ
 そこで、私たちは、日本に多数いる不良ボランティアとつながり、ともに行動したい。私たちの被災地での活動は本当に一部のものにしかならないが、私たちの活動がボランティアの裾野を広げ、一人でも多くの人が思いを行動に移していただき、そのことが一人でも多くの被災者のためになることを切に願う。このことが、自然と共生した災害に強い復興のために、また地域の防災力を持つために、必要不可欠であると強く信じる。このような大災害をただの惨事で終わらせてはいけない。犠牲になった多くの方々のためにも、よりよい未来へ一歩踏み出さないといけない。ひいては、いかなる立場や環境、出自、性、年齢の人も公共を担う責任と能力があることが前提となる、よりよい市民社会を目指すものである。多くの方々の支援、協力、理解、参加を待つ
               
2011年4月
良ボランティアを集める
代表  尾澤 良平