東条雅之監督・映画「祝福の海」

21年目の1・17に東条雅之監督のドキュメンタリー映画「祝福の海」(いのりのうみ)の上映会をさせていただきました。その時に広報文として作成した連載を以下に掲載します。3・11からの復興、これからの未来に向けて大事な視点がたっぷり詰まった映画です、ぜひ応援よろしくお願いします。

祝福の海 詳細

※連載の中にある「NGO」「脱原発リレーハンスト」については
被災地NGO恊働センター↓







「祝福(いのり)の海」東条雅之監督と災害~小市民尾澤良平からの視点

プロローグ



初めまして。今年から大阪府の能勢町で暮らし始めた尾澤良平と申します。今回は、幼なじみで友人の東条雅之君が完成させたドキュメンタリー映画、「祝福(いのり)の海」上映会のご案内にあたり、監督と災害がどのような関係性をたどってきたのかお伝えしておきたいと思います。



監督と僕は生まれ育ったマンションが一緒。小中高もすべて一緒。中学校ではテニスのダブルスを組み、高校ではバドミントンでダブルスを組み、その後もいろんな活動を共にしてきました。お互い特別な政治信条や宗教感覚などがまったくない環境で育ったので、まだこうしていろいろな面で同じ志を共有しているというのは、とても不思議な思いでもあります。



監督や映画の評価は、それぞれが判断すればいいですが、彼のこれまでの言動からも21年目の1・17に向けて、学ぶべきことがたくさんあると思いました。ぜひご一読いただき、当日上映会参加の際には、減災・防災・脱原発のためによりよい対話の機会となるように願っています。



なお、この連載は映画の製作趣旨とは異なるものであり、監督の上映活動とも完全に独立して、一個人としての考えや記憶の一側面だけ記載しています。また映画や監督の印象に一方的な憶測や予断が入る可能性もあります。読む読まないのご判断も含めて連載趣旨にご理解いただければと思います。映画鑑賞後に読んでいただくのも手かと思います。



 それでは、1・17までに数回連載しますので、ぜひお楽しみに。そして会場でお会いできることを願いつつ、予約お申込みスタートです!「①四川大地震」につづく、、、


「祝福(いのり)の海」東条雅之監督と災害~小市民尾澤良平からの視点

    四川大地震



この度は、脱原発リレーハンストのみなさんとのご縁とご協力があって、神戸で上映会をさせていただくことになりました。ご縁というのも実は、僕も東条君も2008年四川大地震がきっかけです。四川では、二人で現地に勝手に行き、宿泊先でたまたま出会った方が当NGOのスタッフでした。中国語も話せず、どうすればいいか何も考えがなかったので、この方のお手伝いができるだけでもありがたいと思いました。四川ガイドブック(尾澤)とカメラ(東条)くらいしか持って来ていない若者二人を受け入れてくれたことに心底驚きました。



僕は出発前から決めていた通りに1週間ほどしか滞在しませんでしたが、東条君は帰国予定を延ばし、四川に残って支援活動を続ける決断をしました。



尾澤「実家のネコの世話を1日頼まれてるから帰るわ。」

東条「そんなん他の誰かに頼めや!そんな状況ちゃうやろ!」

尾澤「しゃあないやん、家族に怒られるの嫌やねん。」

東条「怒られるとかそんなんどうでもいいやん。逆に1日くらいほっといても大丈夫や!」

尾澤「トイレとか変なところでしたら最悪やねん。というか、先に決めた予定を覆すにはめっちゃ気を遣う家族やねん。ただでさえ、勝手なことばかりしてるし、、、」

東条「ネコ1日と現場、どっちが大切やねん!」



と、僕の正直だけどどうにでもなりそうな帰国理由で口ゲンカをした翌朝に、四川を離れたのを覚えています。こういう小さなところで、人の価値観が表れ、その先の運命も変わっていくようです。ペット観や家族観、、、



のお話じゃなく、持ち物の話です。彼の伝え残すという仕事はこの時からキラリと光っていました。その瞬間に大事にすべきことを大事にする、過去や未来に過度にとらわれずに決断する。こんな監督の素質・生き方は、その作品を見れば誰もが直感的に感じることができると思います。あまりにも愚直な判断に、周囲が不意に巻き込まれることも多々ありますが、、、



四川大地震の後、二人は神戸で再会し、一時期は今上映会場であるNGO事務所の屋根に寝食を頼るほどでした。大阪の教員の方のお誘いで、高校生相手に四川のお話をする機会があり、そこで東条君のカメラに残った写真が大活躍。そういえば、四川に行く前に東条君はアジア・アフリカを旅していますが、その時の写真もすばらしいものでした。写真や映像は、撮る人と撮られる人の関係性が出てくるのかな、と強く感じました。カメラマンである前に人として信用されているから、被写体も素直に映っている、そんな感じです。



 二人は神戸でどのように生きるのでしょうか。「②岡崎水害」につづく、、、



「祝福(いのり)の海」東条雅之監督と災害~小市民尾澤良平からの視点

    岡崎水害



ひょんなご縁で神戸を拠点にすることになった東条君と僕。何か所かの被災地でボランティア活動をさせていただきました。スタッフ派遣という形で東条君と行った現場で一番印象に残っているのは、2008年の愛知県岡崎水害です。水害現場など初めてのことで何もわかりませんが、スタッフ派遣ということだったのでとにかく頑張ろうと意気込んでいました。しかし、例にならって、何をすればいいかわかりません。到着して現場に行くと被災者は家の中の片付けで忙しそう。明日は災害ボランティアセンターが開設されているみたいだからそこに行こう、ということになりました。しかし、朝にセンターに行くと晩に降った小雨で活動受付中止。天気は回復傾向でした。



尾澤「まあセンターが中止やったら危ないってことやから今日は休もう。」

東条「昨日見たやろ。現場行ったら皆困ってるからなんぼでもできることあるわ!」

尾澤「一応水位もまだ高いみたいやし。」

東条「こんな天気やったら皆片付けしてるわ。しかも今回は誰かの金で派遣されてきてんねんで!」

尾澤「わけのわからん俺らが現場行って、お手伝いいらん、とか言われるかもしれへんで。」

東条「それでもええやん!」



 というわけで、午前中に水位の低下を確認した後、午後になって東条君が飛び込みでお手伝いを呼びかけました。そしたら1軒目ですぐ「ぜひお願いします。」との依頼。僕はこの瞬間を忘れもしません。被災者と対面することに躊躇していた僕はこの言葉を聞いて救われたような感覚すらありました。スタッフ派遣ということもあり、型を整えて結果を出そうとしていたような気がします。逆に、何もできないとすれば、それは自分たちのせいではない、と言い聞かせたかったプレッシャーもあったような気がします。その後、他の神戸の仲間もこの1軒目を中心にお手伝いをすることでその日は終えました。



しかし、東条君が突破口を開いた力はまだ止まりません。東条君は夕方にボランティアセンターに再度訪れ、難しそうな会議を行っている人に、その日あった現場の状況や場所などを書いたメモを渡したのです。僕たちのようなど素人がこの会議に物申すなどできるはずがない、という感覚がありました。しかし、会議にいた人がしっかりとこのメモに目を通してくれていたことを後日知り、またまた感動してしまいました。現場が一番大事であることを、意識せずにしっかりと認識できている東条君の姿に、僕はボランティアを続けていく自信を無くしそうになったくらいでした。



ちなみに、当NGOから派遣される時、事務局からはほとんど指示や命令は出ません。「③祝島の自然と原発建設計画」につづく、、、



「祝福(いのり)の海」東条雅之監督と災害~小市民尾澤良平からの視点

    祝島の自然と原発建設計画

 

 四川大地震や岡崎水害のあと、僕らはそれぞれの道に進みました。東条君は北海道大学に卒論を書きに戻って以降、「自然」や「いのち」をテーマとする心と体の旅を始めました。貧困問題から派生して、世界の問題が自分の問題となっていく中で、その解決方法を手探りで求めていく旅を始めたのではないか、都会生まれ都会育ちの僕らに足りないものが「自然」だったのではないか、と振り返って勝手に思っています。それは僕自身のテーマでもあったからです。



東条君は自然と生きる人々を巡る中で、海と島を大切にしながら生きる祝島の暮らし、そして、その対岸に計画された原発建設の動きの2つに同時に出会いました。東条君は寝食の屋根を山口県に移し、その両側面の発信をし始めました。僕も農業やボランティアの勉強をしながらも、その話を聞き、何度か山口に足を運んだことがありました。そこで東条君に案内されるのはいつも、美しい自然と共にする暮らしや生き方、



塩・タコ・ヤギ・鯛・ひじき・豚・ビワ・棚田・林道・朝日・夕焼け・海岸・星。



その時、僕は原発について深く考えることができませんでした。人間も自然の一部であること、そんな当たり前のことを体感するだけでお腹いっぱいになっていました。都会で育つ僕らがお腹いっぱいにしてきたものの思い出は、



通学路にあった牛丼(大盛)、部活の体育館の近くにあったハンバーガー(10個買っても600円時代)、スーパーのフランスパン(値段の割に食べごたえがあるので東条君愛用)、冷凍食品やインスタントラーメン(尾澤家にたんまり常備されていた、ある意味防災グッズ)



そりゃ自然を巡りだすわけですよね。もちろん、これらに感謝はしていますが。



僕が自然の素晴らしさに感動している傍ら、東条君は、原発建設によりその自然が簡単に壊されてしまうこと、計画段階でも島民の暮らしに様々な支障が出ていることにもしっかりと目を向けていました。この両側面を目の当たりにしてきた東条君の作品がどのようなものになっているのか、大切なポイントであると思います。



そんな矢先での3・11。2人の運命はいかに。「④東日本大震災」につづく、、、





「祝福(いのり)の海」東条雅之監督と災害~小市民尾澤良平からの視点

    東日本大震災



発災直後、僕はまたほとんど何も考えることができないまま、山形県に支援に入りました。そこに押し寄せる福島からの避難者。僕はそれまでに避難所を訪れた経験は何度かあったのですが、まったく様子が違っていました。原発の様子もまだはっきりわかりません。もちろん放射能のことも。ただただ車を走らせてきた人たちは、実際に何が起こっているのか、どうすればいいのか、山形にいてもいいのか、残してきた家族はどうなったか、あらゆる不安が避難所の中を渦巻いていました。普通の避難所なら、周囲の環境に多少なりとも慣れていたり、逃げてきた人の中に知り合いがそれなりにいたりするようなものです。しかし、ほぼ埋まっている体育館の中はとても静かでした。原発の様子を知らせるテレビの音声だけが響いていました。



 今回も例にならって何をすればいいかわかりません。というより、僕がここにいて大丈夫なのかという自信もありません。とりあえず、僕はひとりひとりに声をかけることにしました。



「僕は神戸から来たボランティアです。これからここにもいろんなボランティアが入り、状況は良くなっていくと思いますよ。」



話せることはこれくらいでした。これまで学んできたことをすべて抽出して口からやっと出てきた言葉でした。でも、それだけの言葉だけでも、話しかけた避難者の皆さんのほとんどは涙を流し始めたり、避難してきた経緯を言い始めたりしました。



そんな中でも福島第一原発の状況は悪くなる一方でした。僕は不安がぬぐいきれずにいました。そんな中に電話があったのが、今の妻と東条君でした。二人の話す内容は同じでした。



「帰ったほうがいい。」



東条君はすでに多くの情報を得ていました。原発はメルトダウンのような状態にあること、風次第では強い放射能が山形くらいの距離にでも飛ぶ可能性のあること、放射能の種類やその性質、身体や環境への影響、過去の事故事例、など、今でこそ知られるようになったことですが、事故前の普通の人なら知らないような情報まで教えてくれました。もちろん何が正しい判断だったかなど、当時はもちろん、これからもわかることはないでしょう。ひとりひとり、ひとつひとつに寄り添っていくしかないのかもしれません。



混乱の中で一番信頼できたのは、僕の「いのち」を想ってくれた二人の言葉でした。しかし、巨大な災害と事故を前に、西日本にいた僕たちはこれからどうすればいいのか。「⑤阪神・淡路大震災」につづく、、、



「祝福(いのり)の海」東条雅之監督と災害~小市民尾澤良平からの視点

⑤阪神・淡路大震災



 東条雅之監督のドキュメンタリー映画「祝福(いのり)の海」には、「いのちを生かし合う、未来につづく暮らしや世界」というフレーズが使われています。今回の映画の原動力になった平和への想いを少しでも満たすことのできる希望が、このフレーズを体現している映画の登場人物であり、たくさん映されている自然そのものだったということでしょう。

 

 その大前提を崩してしまったのが、原発事故でした。大事な自然や支え合いを一瞬にして分断させたのが放射能でした。事故前からその危険性に警鐘をならしていたのは、東条君をはじめ、長年原発問題に関わってきた有志の方々です。しかし、その声が小さかったのか、それとも、他者が聞く耳を持たなかったのか、事故は起きてしまいました。もしかしたら問題は原発だけに集約してはいけないのかもしません。



「いのちを生かし合う」ためには、まず「いのち」そのものにもっと目をこらすべきなのかもしれません。そのはかなさ、健気さ、壮大さを体感すると畏敬の念を抱かずにはいられません。映画にはそのチャンスが散らばられています。しかし、日々の暮らしの中で体感するにはあまりにも忙しく生産し、あまりにも激しく消費しなければならない現実が目の前にあります。その暮らしも、もはや「未来につづく」と言えなくなってきました。環境問題や原発事故がその象徴です。かといって、それを完全に止めてしまうほど「いのち」にエッジは利いていません。



しかし、畏敬の念を抱くと、「生かし合う」という姿勢も必然的に出てくるかもしれません。大事にすることのできた「いのち」を、「生かし合う」「支え合う」という姿勢がもっと重視されれば、やはりそれは希望になると確信しています。なぜか、それは映画をみればこれまた体感できると思います。



ということで、3・11以降、僕も東条君も、ますます自身の暮らしのあり方に目を向けていったように思います。二人ともできるかぎり食やエネルギーなどは自給もしくは顔の見える関係でいただいていくという生活に変えていきました。その上で、東条君は映画作りに奔走。資金集めから上映方法まで、志を集めて活動を続けるというスタイルに徹しています。僕は、山形で話したことを実現しようと、東北へのボランティアバスを運行し始めました。県外避難者へも、「逃げていていいよ」というメッセージを送るつもりで、関西と福島の移動支援も始めました。

 

21年前、阪神淡路大震災が発生したとき、多くのボランティアが自発的に動き、多様な支え合いを実現してきたと聞きます。当NGOのスタッフの方やそこに携わる人は、この連載を読んでも全部当然のことだ、とすっと頭に入っていくかもしれません。多分、21年前にあまりにもすばらしく、あまりにも悲しい「いのち」の叫びを聞いたのだと思います。しかし、部活帰りにフランスパンを食べながら、生きていることもフランスパンの存在も当たり前だ、と思っている若者も多くいるはずです。

 

 監督も僕も、間接的にではありますが、災害からいろんな影響を受けてきました。人生のほとんどを震災で揺り動かされているような気もします。が、このような機会に恵まれない限り、もっと言うと、震災という悲しい出来事に直面しない限り、やはり「いのち」の叫びは聞こえてこないのかもしれません。ハンストをする余裕がないほどフランスパンを生産するこの暮らしです。ハンストできる機会、つまり一番身近な「いのち」に耳を傾ける機会を作っていただいている方々に感謝しつつ、またこれまでフランスパンや牛丼をたくさん作ってくれた方々とその素材たちにも感謝しつつ、この映画上映が1・17と3・11で亡くなった「いのち」の叫びに呼応することを期待して、連載を終わります。

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